M416
医療倫理はこうして支えられている
ドイツの医師職業裁判所の判例
この内容はすでに掲載している「M408ドイツ医師職業裁判所の判例から」と重複しています
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本報告はJMS(Japan Medical Society)Vol.67: 54-57, July/Aug.2001.に発表されたが、編集部のご厚意により転載させていただくことになった。 JMS編集部/菊医会のURL: http://www.j-m-s.co.jp |
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ドイツの医療職裁判所の判決集(3冊)
医療職裁判所には医師職業裁判所、歯科医師職業裁判所、獣医師職業裁判所および薬剤師職業裁判所の4職種が含まれる
はじめに
日本は明治の初期にドイツから医学を導入したが、現在も医療保険や介護保険、臓器移植法など、医療に関連する諸制度を参考にしている。それならば医療の実態も似ているかというと、ふしぎなことに両国の間には大きな隔たりがある。
その一例として救急業務があげられる。ドイツでは全ての開業医は救急業務に参加する義務があり、各地区ごとに救急当番制を設けているので、患者は一年中真夜中でも診療所で診療を受けられるし、往診もしてもらえる。そして要入院と判断されたときや、交通事故のように明らかに緊急を要する場合には、救急車(必要であれば医師同乗)で直接病院に搬送されるので、国民は救急業務に対して大変満足している。
戦後、医師職業規則で開業医に救急業務に参加することを義務づけたが、1972年に連邦行政裁判所は、このことを州の法律で規定しなければならないという判決を下した。これによって現在のような救急業務が全国的に組織化され、充実したという経緯があり、患者に配慮した医療に学ぶべきものを感じる。
医師会、職業規則、裁判所
ドイツには、日本に存在しない医師職業規則というものがあり、医師が守らなければならない職業上の義務と倫理が明文化されている。たとえば、救急業務に参加する医師は、救急に関する生涯研修を続けることを条文で義務づけている。このようにして医療の質を確保し、全ての医師が倫理的になることを義務づけているが、このような重大な事実が日本ではほとんど知られていない。
少し複雑になるが、ドイツの事情を理解する上で必要なので、日本と違う制度を説明しておくことにしよう。州ごとにある州医師会は医師の自治組織であるが、ドイツの医療の中核をなす重要な存在である。州医師会の構成や任務は州の法律で規定されているが、州政府から権限を委譲された形で医師の監督を行っていることに注目しなければならない。その一例である医師職業規則というのは、連邦医師会(各州医師会の代議員によって構成される私的な組織)が原型を作成し、各州の医師会がこれを議決し、州政府の承認を得て州医師会が実施している規定である。このようなシステムは、戦後の連邦制移行後に確立されたもので、50年あまりの歴史しかない。
なお、医師職業規則の翻訳は私のホームページに掲載されているので、興味のある方はご覧下さい。
http://www.hi-ho.ne.jp/okajimamic/ 【ファイルは本稿のタイトルの直下に示してあります】
また、日本には存在しない制度であるが、ドイツには医師職業裁判所というものがあり、医師の義務や倫理違反に対して厳しい制裁を科している。私は図に示したような職業裁判所判決集(2,300頁、加除式)を最近入手したので、その中から8件の判例を紹介することにしよう。
このような判例をご覧になるのは、大多数の読者にとって初めてのことではないかと思う。そして医師の義務や倫理に対する厳格な態度に大変驚かれるのではなかろうか。私がときどき顔を出す医事法関係の学会や関連論文のなかで、医師職業規則や職業裁判所のことがまったく取り上げられていないのも事実である。このような規則や裁判所は、刑法や民法、つまり通常の刑事裁判や民事裁判とは違った次元に位置するために、失礼な推測ではあるが、日本の医師や法律学者は気がつかなかったか、あるいはその重要性を意識しなかったのではないかと思う。
「医師職業裁判所判例集」からの判例
判例1(1991年): 救急業務
夜間の救急当番に当たっていた一般医が、救急センター(事務的に連絡するだけ)を通して午前4時35分に急患の連絡を受けた。夫からの電話で、妻は心臓疾患の既往はないが、呼吸と体を動かすことに関係のない胸部の痛みを訴えているという内容であった。また、6時10分にも再度同様の電話連絡があったが、2度とも電話で指示を与えただけであった。7時35分にその患者の家庭医が診て心筋梗塞と診断し、それはその後心電図で確認されたというケースである。
職業裁判所は、このケースは心筋梗塞のような重篤な疾患を疑わなければならない状況であったのに、そのような判断をせず、患者や家族のために往診をしなかったことは義務に違反するとして、戒告と2000マルクの罰金を科した。
ドイツで開業されていた柴田三代治医師は、手紙の中で「患者への処置を電話の指示で済ませることはできるが、私の場合は、初めての患者のときには、何があるか分らないので必ず往診して確かめることにしています。」と書いておられたが、その意味がご理解いただけると思う。
判例2(1981年):救急業務
W地区で開業している女医が20km離れた別のB地区に引っ越した。3週間に1回まわってくる夜間の救急当番のとき、最初は診療所に泊まっていたが、その後夜10時以後は20km離れたB地区の自宅に戻り、留守番電話で自宅に連絡が取れるようにした。電話連絡を受けてから20km離れた診療所に車で行っても20分はかかる。時間がこれだけ延長することは、重大な疾患のときには深刻な結果をもたらす。また、電話をかけずに診療所に直接来た患者は、無人であるため、病院に行かなければならなくなった。そして苦情が多数寄せられた。病気の母親を抱えていたこの女医は、翌年度に代診を置くことにしたので、このような苦情はなくなった。
職業裁判所は、最初は診療所に泊まり込んでいたから、その女医は救急業務の重要性を良く知っていたはずであるのに、自宅に戻るようになったことは、医師としての義務違反で処罰に相当すると判断したが、しばらくして代診を置くようにしたという状況を考慮すると、戒告処分にとどめておくのが相当という判決を下した。
判例3(1998年):保険の不正請求
概要:ある病院の部長医が数年にわたって、週末に帰宅する患者が入院しているように書類を作り、疾病金庫から入院費用を不正に入手していた。部長医はそれによって病院が支払を受けられると考えたからである。この場合、通常勤務の女医がその行為を手伝った。
ここに示された判例は、それを手伝った女医に対するものであるが、刑事裁判で有罪となり、40,000マルクの罰金を科せられた。
しかし、その女医への制裁はそれだけでは済まない。医師職業裁判所は、「その女医の行為は、医師に対する信頼を著しく傷つけた」という根拠で15,000マルクの罰金を科した。
その女医は部長医の行為を手伝ったということで刑事罰受けたが、さらに医師職業裁判所からも罰せられ、合計55,000マルクの罰金を支払わされたことになる。
ドイツの医師職業規則には「医師の職務に関連して寄せられる信頼に応えなければならない」という抽象的な規定が書いてあり、これによって上記のような制裁が下されたことになる。
柴田医師によると、病院勤務の中年医師の月収は7000―8000マルク(夜勤手当なし、税込)とのこと。罰金の重さは1年間の収入に匹敵する。
判例集には部長医について以下のことが書いてある。「この部長医は血液腫瘍方面で活躍している医師であり、治療に高いコストがかかるので、このようなことをやってしまったということである。部長医は刑事裁判で高額の罰金刑になっているので、職業裁判所の方では中等度の罰金で十分ということになった。そして医師会の被選挙権の剥奪という処罰やマスコミで騒がれた免許抹消については、不必要と判断された。」
判例4(1999年):期限切の薬
ある医師が救急箱に期限切の薬を入れていた。また、診療室にも期限切の薬を多量に残しており、また錆びた器具を使っていた。
その医師は「良心的な職業従事」の義務に違反したと判断され、1500マルクの罰金を科せられた。医療上事故などの支障があったとは書いてない。
判例5(1997年):ひき逃げ
医師が歩行者をひき逃げして死なせてしまった。
刑事裁判では、10ヶ月の実刑と3年の運転免許停止の併科。
そして医師職業裁判所は、ひき逃げしたときに救急処置をする医師としての義務を怠ったということで5000マルクの罰金を科した。
判例6(1984年):不正確な研修証明書
研修医が外科の専門医の認定を受けるために提出した手術のリストに、自分が執刀していないかなりのケースを、自分が執刀しているかのように書き込んだ。外科の部長医は、書類ができていますという医長の言葉をそのまま受けて署名し、病院の証明として提出した。
職業裁判所は研修医に罰金2000マルク、外科部長医にはリストを抜き取り検査もしなかったということで罰金8000マルクを科した。しかし、第2審で部長医の罰金は2000マルクに減額された。
判例7(1999年):医師の暴言に対する処分
た。医師は診療主旨:医師は、患者から気分を悪くさせられても、患者に対しては、医師の名誉を傷付けるような発言は慎まなければならない。
事件の経過: ある医師が1997年12月25日のクリスマスの日に、医師補助者(日本の看護婦に相当する)と一緒に診療所で、19:00まで割り当てられた救急業務当番に従事していた。
18:50頃A(女性)が、自分の母親が頭痛であると診療所に電話してきた。医師はすぐ来るようにと返事した。医師はこれから1件往診をしなければならなかった。そして、その間に更にもう1件往診依頼が入ったが、出かけずにAを待っていた。(19:00までに受けた依頼は、その時間が過ぎてもその医師が全部処理しなければならない規則になっている)
患者である母親と娘は、診療所を直ぐに見つけられなかったので、19:20頃にやってきた。医師は補助者をすでに帰宅させており、往診に出かけるところであったので、患者が遅くきたことを怒っていた。
しかし、医師はドイツ語の喋れない母親とドイツ語の喋れる娘Aを診察室に入れ、検査を行い、血圧を測り、注射をして頭痛薬を処方した。この約10分の処置の間に、医師は次のような怒りをぶちまけた。「頭痛の患者のために半時間あまり診療所に釘付けになった。」そして、「彼女らの故郷(その家族はトルコの出身であるが、数十年もドイツに住んでいる)では、そんなに長く待っていてくれるような医者は見つけられないだろう。それなのに医師は自分たちのためにいつも待っていてくれるとでも思っているのか。」そこで、製薬会社の助手であったAは、「あなたが医師の職業を選んだときに、いつも患者のために存在しなければならないことを知っていなければならなかったはずだ」と反論した。この教訓に刺激された医師は、「あんたはドイツをもっと勉強しなければならない」と言い、ある種の悪口(辞書にないので翻訳不能)を述べた。この発言は、ドイツにいるトルコ人全体を見下したのではなく、彼の怒りをぶちまけただけであった。
この事件は職業裁判所で次のように判断された。医師にとっては、クリスマスに待たされたことやAの無礼な教訓があったとしても、これは弁解にはならない。医師に期待されることは、患者に対して客観的に、思慮深く振る舞うことであって、いかなる場合にも医師の名誉を傷つけるような発言をしてはならない。この件では、トルコ国籍人に対する侮辱的発言とそのような動機を生んだ状況がある一方、医師が義務を守って救急業務を勤めた事実があるが、地区職業裁判所はこれらを勘案して、医師の名誉職裁判官が提起した2,500マルクの罰金を、職業の信頼を守るための処罰として適当であるとした。
判例8(1998年):診察を受け付けなかった場合
生徒が授業中に首を後方に曲げたとき、頚椎部に音がして強い痛みを感じた。教師は生徒を整形外科の診療所に連れて行き、すぐ診てくれるように依頼した。医師補助者(ドイツの診療所では通常看護婦ではなく、3年間の専門教育を受けた医師補助者が医師を手伝っている)は、教師から事情を聞いて救急ケースではないと判断し、午前中は多数の患者が待っていて間に割り込ませることができないと説明した。教師が診察を強く望んだので、医師補助者は他の整形外科に連絡し、生徒はそこで診察を受け、救急を要するものではないことが分かった。職業裁判所は訴えられた整形外科医に無罪を言い渡した。
この状況では職業義務に違反する行為がないことが確定した。整形外科医は診療を拒否していなかったので、患者を断る判断を補助者に認めていたことが医師の義務に違反するかどうかの問題であった。9時に始まる診療時間はすでに予約で一杯であった。多数の診療所が存在するような町では、急を要すると思われないときは、熟達した医師補助者にあとから訪れた患者を他の医師に紹介させても差し支えはない。しかし、救急処置が必要であるかどうかの判断を医師補助者に任せることは、医師にとって少なからぬリスクを伴う。したがって、医師は救急患者といわれる患者の健康状態を自ら確認することが望ましい。直ちに医療処置が必要かどうかは、医師が常に自ら決定する義務があるというのが医師の名誉職裁判官の見解であるが、裁判では必ずしもそのように判断されるとは限らないことを示した一例である。
本件の医師補助者は、電話であまり遠くない整形外科医を紹介できたということで、義務を果たしていると判断された。
なお、医師補助者(女性)は戦後にできた職種で、州医師会が教育と試験を担当し、教育期間は3年、最近は医師や看護婦と同様に、専門を深めるための卒後研修コースも設けられている。
以上の判例によって、 医師職業裁判所がどのような裁判を行っているかお分りいただけたと思うが、取り扱う対象は広範囲に及んでいる。もちろん、無罪となっているケースも多数収録されている。
医師職業裁判所について
裁判所の構成
医師職業裁判所は、医師会の懲戒処分より少し重い事件や特殊な事件を審査しているが、二審制、参審制となっている。参審制というのは、特殊な専門領域の裁判において、その方面に詳しい民間人を名誉職裁判官(無報酬)として任命する制度である。
医師職業裁判所の第一審は裁判官3名で構成されるが、その内訳は専門職裁判官1名、医師会が推薦した医師の中から裁判所が選んだ名誉職裁判官2名からなる。第二審は、専門職裁判官3名、医師の名誉職裁判官2名で構成される。
職業裁判所の歴史
19世紀の後半にドイツ各地で、医師に職業義務を守らせ、医師職業の名誉を喚起することを目的として医師組織が作られた。そして医師たちは医師の職業裁判所を国家レベルで作ることを提案したが、当時の宰相ビスマルクは、これは州レベルの問題であるとしたため実現しなかった。しかし、医師組織はその後も活発に活動を続け、1935年に全国統一の医師の職業裁判所制度が実現した。しかし、敗戦によりドイツは連邦制に移行したため、その後は現在のように、州ごとに医師の職業裁判所の規定が定められるようになった。
制裁
ちなみに、ある州の医師職業裁判所の制裁は以下のようになっているが、上述の判例が示すように、併科もできることになっている。
注意、
戒告、
被選挙権の剥奪、
100
000マルクまでの罰金、
被疑者が職業に従事することが相応しくないという決定
なお、このような罰金は裁判の費用に当てられるが、年度末に裁判の経費が不足するときは、州が補助することになっている。もし余剰が出れば、医療職法で設置が義務づけられている医師のための福祉施設に寄付される。
裁判所が扱う対象
職業裁判所という制度は医師だけでなく、歯科医師、薬剤師、獣医師のような医療職にもそれぞれ存在する。職業裁判所は医師と患者間、医師相互間、医師会やその監督官庁と医師の間に生じた義務違反や倫理違反を審理して判決を下すので、その性格や手続きは刑事裁判所と同じである。職業裁判所は通常の裁判所の下位に位置する。職業裁判所は損害賠償のような民事的な事件は扱わない。
職業裁判所とは別個に、患者の苦情を受け付けて審査する鑑定・調停機関が、医師会の中に設けられているが、それを扱う法律家がしっかりしているので、医師会の中に設置されていても、患者の不満や不信はあまりないと言われている。しかし、ここでの調停に満足しないで、通常裁判所の事件に移行するケースもある。
医師の職業(倫理)規則
諸外国に存在する各種の医師職業(倫理)規則は、その名称に違いがあっても、医師の守るべき義務や倫理を定めた規範である。米国にはこのような規則はなく、アメリカ医師会の抽象的で短い倫理綱領が存在するだけのようであるが、州の医事審議会(Medical Board)がきびしい審査を行っている。
日本の場合は
医療が高度複雑化するに伴い、それを実施する医師の義務や倫理に規範が必要となってきた。日本はこの種の職業規則を作っていないため、つまり常識では理解していても明文化されていないために、医師の守るべき義務や倫理が諸外国に比べて不明確、不徹底となっている。このことは職業規則を読んでみると理解できると思う。その結果わが国では、倫理基準は医師個人の主観に任され、医師各自の自発的な努力によって倫理的な医師になってもらうことしか期待できない。また、倫理は規則で規定できない、とする見方もある。
不行跡を行った医師が他者によっていくら厳しく罰せられても、医師の信頼回復にはつながらない。医師が自らを律する規範を受け入れて実践しなければ、医師の信頼と名誉の回復はありえないとするのが、先進諸国の考え方と受け止められる。
「医師は信頼される職業である」という先入観があるが、これは医師が義務と倫理を厳しく守ることを前提としている。これを放置すれば、ヨーロッパ中世に「悪いことをするのに盗人と医者がいる」と言われた時代に戻ってしまいかねない。
医師になれば、それだけで信頼されるようになると安易に考えることは危険である。もし、日本の医師がこのような奢った気持ちによって信頼と名誉を損なう行為を重ねるようなことがあれば、外国が長い年月と努力を積み重ねて築き上げてきた医師という職業に対する信頼と名誉を損なうことになり、外国の医師に対して申し訳ないことになる。