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M421
ドイツの医師の職業義務と裁判外紛争処理
岡嶋道夫
目次
はじめに
I 医の倫理
II ドイツの医師職業規則
III ドイツの医師職業規則の例示
IV 医師会の懲戒委員会
V 医師職業裁判所
VI 職業裁判所の判例
VII 医師に対する刑事事件
VIII 裁判外紛争処理、鑑定委員会による調停
IX 米国の裁判外紛争処理
おわりに
筆者は定年退職後10年余りにわたってドイツの医療関係資料を翻訳したり、紹介したりしてきたが、その主なものはホームページhttp://www.hi-ho.ne.jp/okajimamic/に掲載している。このような仕事を通して、最近つぎのような悟りの境地とも言えるものを感じている。
「真似できないことばかりであるが、ドイツのようなシステムを持つ国が実在することは知っておく必要がある」
本当にそうなのだろうか、という気持で以下の内容を読んでいいただくとよいかもしれない。
その前にヨーロッパ連合の公用語分布を見ると、ドイツ語が9千万人で、英語、フランス語、イタリア語の6千万人前後より多く、ヨーロッパにおけるドイツ語文化圏が大きいことにも注目していただきたい。
また、ドイツにおいて、市民が高く評価している職業のイメージを複数回答のアンケート調査で調べたところ(1993年)、医師が81%で断然高く、次が聖職者40、弁護士36、教授33などとなっていた。このような医師という職業に対する高い評価は現在も同じと言われている。医師への信頼を確保するために払われている努力にも教えられることが多い。
I 医の倫理
生命倫理: 科学や医療技術の急速な進歩と関連して注目を浴びるようになった倫理で、脳死と臓器移植、体外受精のような生殖医学、胚、遺伝子やクローンなどが対象となるが、実際にこれに携わる医師は限られている。
日常の医療倫理: 医療に従事する全ての医師が守らなければならない身近な職業倫理である。わが国では生命倫理と違って地味な存在であるが、ドイツなど多くの国では重視され、医師職業倫理規則という形で医師の義務と倫理が明文化されている。さらにその細部は拘束力のある指針などで補われている。医学の進歩と社会の多様化に対応するために、医療に規範化が求められる時代となったが、ヒポクラテスの誓が時代の要請に応えて姿を変えたものと見ることができる。
II ドイツの医師職業規則
ドイツの医師会は「ドイツ医師職業規則Berufsordnung für die deutschen Ärzte」を作成し、日常の職業義務と倫理を医師に理解しやすい文章で明文化している。この事実は日本ではほとんど知られていなかった。
この医師職業規則は医師の行動の規範であり、医の倫理を医師に義務づける規則であって、かれらが「医師の憲法」と表現するほど重要なものである。違反すれば罰則適用の対象となる。つまり、全ての医師に倫理的医師になることを義務づけていることになる。
わが国には、倫理は各自の心の中にあるものであって、明文化できない性質のものという感覚が根強いが、外国の職業倫理規則を読んで考え直してみる必要があるのではないだろうか。
筆者はそのように感じているので、ドイツの医師職業規則を全訳してホームページに掲載した。職業規則は医師の義務と倫理が時代の要請に即応するように、頻繁に改訂が行われているが、推移を訳文の文字数で見ると、1970年版9000字、1993年版1万2000字、1997年版1万9000字となっている。1)
III ドイツの医師職業規則の例示
医師職業規則には数多くの規定が示されているが、ここではそのいくつかを取り上げみることにする。
1.「良心的な職務従事」について
医師職業規則につぎのような条文がある。
§ 医師はその職務を良心的に行い、職務に関連して寄せられる信頼に応えなければならない。
抽象的な表現であるが、頻繁に適用される重要な判断基準である。
2.「開示」の義務化について
1995年に改訂された世界医師会のリスボン宣言に合わせるように、1997年には医師職業規則につぎのような条文が加えられた。
§ 医師は、患者の要望があれば、原則として当人に関連した診療記録を見せなければならない:医師の主観的印象または感知したことを含む部分は除外される。請求があれば、患者に費用負担させて記録のコピーを渡さなければならない。
この時期に多くの国では、それぞれの国の職業倫理規則に相当する規定に、開示の義務が明文化された。日本では法制化するかどうかで議論が交わされたが、結局のところまだ明文化されていない。
開示について、もう少し具体的に述べてみる。これは2003年にドイツ連邦の法務大臣と保健医療社会保障大臣(厚生大臣に相当)の連名で出された「患者の権利憲章2003年」2)にもつぎのように書かれている。
・
閲覧の権利は、医師の主観的判断および印象に該当する記録には及ばない。
・
閲覧権の制限は、精神病診療の領域および診療に関係した人(例えば家族、友人)の権利に触れるときに存在することがある。
このように明文化されていると、医師は開示の義務を安心して判断することができる。日本では議論に無駄といえるような労力を費やし、神経をすり減らした。
3.「説明の義務」について
ドイツでは「説明Aufklärung」という一つの用語の中に、説明と同意の両方の義務を含ませている。医師職業規則では、
§
医師は、診療するには患者の同意を必要とする。同意には原則として、必要な説明を個人的な会話で先に行わなければならない。
という短い規定になっている。しかし、これを具体的に補足する詳細な指針が二つ作られている。3) 4)一つはドイツ連邦医師会のもので、説明に関する一般的なことが述べられており、他の指針はドイツ病院協会が出したもので、主として入院患者を対象としたものである。
これらの指針の中からいくつかを拾ってみると、患者に対する説明は「侵襲に対する説明と同意」だけではなく、「健康状態に適した生活方法をさせること、治療の結果や副作用について時宜を得た報告をさせること」も含まれると書いている。
また、「医師が患者に、疾患の種類と重大性を示さなければ、危険と結びついた検査または治療について患者の同意が得られないときは、医師は重い疾患の場合であっても、患者に説明することに尻込みをしてはならない」と書いてあり、ガンの検査や治療のときには、患者にガンであることを知らせることになっているという。
しかし、指針には次のようなことも書いてある。「医師は疾病の性質について、全部についての、また思いやりのない説明を義務づけられているのではなく、人間性を遵守し(この部分の表現は正確に翻訳することが困難)、情報を与える場合の患者の身体的および精神的状態に配慮しなければならない」。指針にこのように述べてあると、医師にとっては大きな救いとなるのではないだろうか。明文化しても柔軟さや暖かさを含ませることのできる例ではないかと思う。
IV 医師会の懲戒委員会
ドイツでは、医師の義務違反や倫理違反に対する制裁は2段階となっている。軽度の違反は州医師会の懲戒委員会で審査され、有責と認められると以下のような制裁が行われる。
5,000マルク(約2,500ユーロ)までの科料
資格や免許の停止(2年まで)
手続は州によって多少異なる可能性はあるが、軽い違反に対しては医師会長が単独で注意することができる。それ以外は州医師会の理事会が懲戒委員会の役目を果たす。これらの審査の記録は、医師職業裁判所に一定期間保存されたのちに廃棄される。
やや重い違反や複雑なケースの場合は、州医師会がつぎに述べる医師職業裁判所に手続を申請するが、裁判所の判決による制裁は以下のとおりである。
注意
10万マルク(約5万ユーロ)までの科料
職業裁判所の判決は行政機関に直ちに伝えられる仕組になっているので、職業を行う資格がないと決定すると、行政が医師免許を剥奪することになる。
表1 ノルトライン医師会の医師監査報告
(管轄地域の人口930万人)
|
2001
|
2002
|
2003
|
2000−5000マルクの科料
|
21
|
37
|
9
|
会長からの注意(軽度のもの)
|
3
|
28
|
28
|
理事会による戒告
|
15
|
25
|
8
|
職業裁判所へ申請
|
28
|
17
|
31
|
合計
|
100
|
107
|
76
|
実際にどの程度の件数が州医師会の懲戒委員会の処分を受けるのだろうか。ノルトライン医師会が統計を発表しているので表1にまとめてみた。
V 医師職業裁判所
医師職業裁判所は医師の義務違反や倫理違反に対して制裁を科しているが、その性格は刑事裁判と同じである。損害賠償や慰謝料請求のような民事的な事件は扱わない。制度的に参審制と二審制が採用されている。
参審制: 特殊な専門領域の裁判の場合に、その方面に詳しい民間人(ここでは医師)を名誉職裁判官として任命する方式である。この場合のように名誉職という肩書は無報酬、つまりボランティアであることを意味する。
二審制: 第一審は裁判官3名で構成、その内訳は専門職裁判官1名、医師会が推薦し裁判所が選んだ「医師の名誉職裁判官」2名である。
第二審は裁判官5名で構成、内訳は専門職裁判官3名、医師の名誉職裁判官2名である。
専門職裁判官は通常定年退職した裁判官が担当し、通常の裁判所の建物、組織の中で医師の職業裁判が行われる。
職業裁判所の性格:
医師職業裁判所は医師と患者間、医師相互間、医師会やその監督官庁と医師との間に生じた義務違反や倫理違反を審理して判決を下している。
しかし、このような職業裁判所は、医師だけのものではなく、歯科医師、薬剤師、獣医師のような医療職にもそれぞれ存在する。また、弁護士、公認会計士、税理士、納税代理人の4職種も職業裁判所を持っている。
以上に述べた職業裁判所Berufsgerichteは、以前は名誉裁判所Ehrengerichteと言われていた。その定義は法律辞典(Creifelds: Rechtswörterbuch)によると、つぎのように述べられている。
「職業裁判所は個々の職能階級の懲戒裁判所で、それを純潔に保ち、職業の品位と相容れず、また職業身分の名声を害する行為を罰するためのものである。処罰は通常戒告、科料さらには職業身分からの排除である」。
要するに、職業裁判所の手続は刑事裁判と同じではあるが、上記の定義に見られるように、処罰の対象となる行為は刑事事件と異なって幅広く解釈されている印象を受ける。この点については、次章に紹介する判例を見ると、その特色が理解できるのではないかと思う。
職業裁判所は刑事裁判所の下位に位置する。したがって、同一事件で職業裁判所と刑事裁判所の両方で審理が行われる場合は、職業裁判所は刑事裁判所の判決が出るまで審理を停止する。
ある州の医療職法を見ていたところ、全ての裁判所および官庁、並びに公法の団体は、医療職に対する職業裁判所に職務共助と司法共助を行わなければならない、と書いてあった。この規定は基本法(憲法に相当する)35条1項に基づいているので、ドイツでは役所などの間の縄張りは憲法で抑えているのではないかと思った。公法の団体には医師会、保険医協会、疾病金庫の連合体なども含まれる。
VI 職業裁判所の判例
医師職業裁判所の存在とその判例は日本ではほとんど知られていない。なぜ見過ごされてきたのであろうか、という疑問が生ずる。
職業裁判所の設置と手続を規定しているのは各州の医療職法である。このような州レベルの法律は、州の法令集を入手しなければ見ることができない。図書館で通常備えている連邦の法令集には含まれない。また、職業裁判所の判例は、民事、刑事その他の連邦レベルの裁判所の判例を掲載する判例集には収録されない。このように職業裁判所は違った次元に位置するために、法律家や医師はその存在と重要性に気がつかなかったと推測される。
同様のことは医師職業規則についても言える。この規則は官報の類には掲載されず、州医師会雑誌に掲載されることをもって公布とされている。したがって、医師職業規則は医師会の資料、医事法規集あるいはモノグラフを開かないと見ることができなかった。しかし、最近は連邦医師会、各州の医師会のホームページに掲載されている。
医療職裁判所の判例を集めた「医療職裁判所判例集」5)から、判例をいくつか紹介することにする。
判例1〈1991年〉:救急業務
夜間の救急当番に当たっていた一般医(家庭医)が、救急センター(事務的に患者と医師の連絡をとる)を通して午前4時35分に急患の連絡を受けた。妻は心臓疾患の既往はないが、呼吸と体を動かすことに関係のない胸部の痛みを訴えているという内容の夫からの電話であった。また、6時10分にも再度同様の電話連絡があったが、医師は二度とも電話で指示を与えただけであった。7時35分にその患者の家庭医が診て心筋梗塞と診断し、それはその後心電図で確認された。
医師職業裁判所は、このケースは心筋梗塞のような重篤な疾患を疑わなければならない状況であったのに、そのような判断をせず、患者や家族のために往診をしなかったことは義務に違反するとして、戒告と2000マルクの科料を科した。
ドイツで30年以上家庭医として開業されていた柴田三代治医師は手紙の中で、「患者への処置を電話の指示で済ませることはできるが、私の場合は、初めての患者のときには、何があるか分らないので必ず往診して確かめることにしていました」と書いていた。
判例2〈1999年〉:期限切れの薬
ある医師が救急箱に期限切の薬を入れていた。また、診療室にも期限切の薬を多量に残しており、また錆びた器具を使っていた。
医師職業裁判所は、その医師は「良心的な職業従事」の義務に違反したと判断し、1500マルクの科料を科した。判例の中には医療上事故などの支障があったとは書いてない。これなどは、職能団体の信頼に応えようとする職業裁判所の特色を現しているように思われる。
判例3〈1997年〉:ひき逃げ
医師が歩行者をひき逃げして死なせてしまった。
刑事裁判では、10ヶ月の実刑と3年間の運転免許停止の併科という判決。
そして医師職業裁判所は、ひき逃げしたときに、救急処置をするという医師としての義務を怠ったということで5千マルクの罰金を科した。
判例4(1984年):事実に反する研修証明書
研修医が外科の専門医の認定を受けるために提出した手術のリストに、自分が執刀していないかなりのケースを、自分が執刀しているかのように書き込んだ。外科の部長医は、書類ができているという医長の言葉をそのまま受けて署名し、病院の証明として提出した。
医師職業裁判所は研修医に罰金2000マルク、外科部長医にはリストを抜き取り検査もしなかったということで罰金8000マルクを科した。しかし、第2審で部長医の罰金は2000マルクに減額された。
この他に、それぞれ性格の異なった4件の判例を筆者のホームページに掲載しているので、興味ある方はご覧下さい。6)
VII 医師に対する刑事事件
上記の懲戒処分や職業裁判所の手続とは別に、通常の刑事裁判所において各種の刑事事件の手続が行われる。例えば、
医療過誤:各種の過失による身体傷害と致死
組織上の欠陥
援助(ケアなど)の不作為
守秘義務違反
加罰的行為:妊娠中絶、安楽死、臓器移植、避妊(断種)法、生殖医学など
これらの領域は筆者の能力を超えるので、本稿での解説は省略する。
VIII 裁判外紛争処理、鑑定委員会による調停
裁判外紛争処理について述べる前に、その根底となるドイツの独特な制度について簡単に説明をしておく。
ドイツでは外交、国防、郵政(現在は民営化)、鉄道(現在は民営化)などは連邦の管轄であるが、医療や教育は州の管轄であった。文部省は各州にあるが、連邦にはない。このようにドイツでは連邦と州の管轄は複雑であるが、どのようなものが連邦あるいは州の管轄になるかということに関しては法則性がない。そのために不便を感ずることも多いので、連邦と州の管轄を見直そうということで、基本法(憲法)改訂の検討が始まったという。医療に関していうと、連邦の保健医療社会保障省が一部の権限を有するが、医療の実際は州政府の管轄の下にある。そして、医師を監督する権限と義務は、州政府が州医療職法に基づいて、医師の自治組織である州医師会に委任した形を取っている。
したがって、何れの州医師会も歩調を合わせて、医師を監督する法的責任を負っている。州医師会は州医療職法の中で、
・
職業を高いレベルに保つこと
を義務づけられている。それに基づいて、すでに述べた州医師会の懲戒規定や職業裁判所の規定が定められているのである。
州医師会に課せられた任務には、さらにつぎのような事項がある:
・
医師会会員相互の順調な関係のために配慮し、職業従事から発生した医師会会員同士の間、並びにそれと第三者との間の争いを、医師会として扱えるレベルのものであれば調停をする。
・
診療過誤の鑑定のための部署を設立する。
(以下10行ほどの文章は2007年10月に表現を変更した。)
このような規定に基づいて、州医師会は1975年から1978年にかけて、患者からの苦情を受付けて裁判外紛争処理をする鑑定委員会または調停所という機関を設置した。その名称は州によって異なり、審理の仕方も多少違うが、目的は裁判外の合意である。
・
鑑定委員会: 委員長には裁判官職資格を有する者がなり、若干名の医師の委員が加わるが、苦情の対象となった医師と同じ専門領域の医師を含め、医療過誤が確認されるかどうかを鑑定する。
・
調停所: 医師が委員長となり、裁判官職資格を有する法律家と医師の委員若干名で構成され、鑑定に基づいて損害賠償請求権や責任問題を判断する。
鑑定委員会または調停所は、米国の裁判外紛争処理を参考にして、裁判で処理しきれなくなった事件の処理のために設立されたものである。
書面審理方式で、必要な書類(診療記録など)は委員会が取り寄せる。
必要があれば鑑定を行うが、その頻度は高い。鑑定料は委員会の費用、つまり医師会の費用から支出される。鑑定人が受け取る鑑定料には規定がある。
鑑定委員会と調停所の決定について:
裁判所の判決と異なり、鑑定委員会と調停所の決定には拘束力がない。
当事者の一方が承知しないと、裁判に進む可能性がある。
手続は無料、つまり患者は資料取り寄せや鑑定などの費用を支払う必要はない。
しかし、弁護士や代理人を依頼するときは、その費用は当事者の負担となる。弁護士を依頼する頻度は、患者の場合は半数ぐらいとのことであるが、賠償や慰謝料の額を保険会社と折衝する段階になってから依頼することが多いという。一方、医師が弁護士を依頼するのは数パーセント以下で僅かである。
手続期間は平均的に10ないし12ヶ月、この期間は鑑定に要する日数に影響される。
これらの委員会のオフィスは医師会の中にあり、経費は医師会が負担、医師会の職員がこの業務を手伝う。
委員は無報酬。裁判官資格を有する委員は、多くの場合定年退職した元裁判官である。
鑑定委員会が医師会の中に作られたとき、医師に有利な判定がなされるのではないかと心配されたが、委員たちが中立の立場を守り、公平な判断を下してきたので、現在は患者も医師も鑑定委員会を信頼し満足している。
このような苦情の中に医師の義務違反が見つかれば、医師会の懲戒委員会に回されて懲戒処分を受けたり、医師職業裁判所の手続に移されたりするが、刑事裁判になるものもある。
患者の苦情は、医師患者間の信頼関係に原因することが多い。統計をみると、患者からの苦情件数は毎年増加しているが、医師患者間の日常の接触頻度、つまり診療回数が増加していることと、患者の権利意識が向上していることを考えると、その増加をあまり深刻なものとは受け止めていないようである。つまり、苦情は増えても、医療事故の割合が悪化しているとは考えられていないからである。
古い時代の調停所は、患者よりも医師同士の間のトラブルを処理することが主であったらしいが、現在も医師の同僚間の苦情が軽度ながら増加しているということで、これは診療所と病院の労働条件がより厳しくなっていることに原因があると思われている。
ちなみにドイツの苦情処理係には、つぎのようなものがある(ドイツ柴田三代治医師による)
a)
州医師会(鑑定委員会、調停所)
b)
健保審査医事務所
c)
消費者連盟(患者連盟)
d)
自助グループ(各慢性疾患にある)
e)
市町村の社会福祉事務所
f) 病院の苦情処理係
鑑定委員会及び調停所の活動を詳しく分類した全国統計が毎年作成されているが、畔柳6)7) 、我妻8)が翻訳して紹介している。
表2 ドイツにおける鑑定委員会と調停所の業務
2000年度
ドイツ医師会雑誌98(51-52):A-3424,2001より
|
新規受付
9666
|
前年度より
8138
|
処理数
9244
|
翌年に
8560
|
バーデン−ビュルテンブルク
|
1040
|
802
|
994
|
848
|
バイエルン
|
485
|
731
|
430
|
786
|
ヘッセン
|
728
|
525
|
662
|
591
|
ノルトライン
|
1602
|
1264
|
1400
|
1466
|
北ドイツ
|
3744
|
3380
|
3590
|
3534
|
ザールラント
|
92
|
82
|
109
|
65
|
ザクセン
|
345
|
113
|
328
|
130
|
ヴェストファーレン−リッペ
|
1280
|
962
|
1320
|
922
|
ラインラント−ファルツ
|
350
|
279
|
411
|
218
|
2000年にドイツの全鑑定委員会と調停所が扱った事件数を表2に示した。これは州医師会別の統計であるが、その中にある「北ドイツ」というのは、ベルリン、ブレーメン、ハンブルクなど9つの州医師会の合体である。歴史的及び制度的な事情で、これらの9州は 一つの組織として活動しているためである。
これらの委員会に寄せられる苦情には、医療過誤以外に種々なものが含まれる。たまたまノルトライン医師会が1995年に扱ったケースが報告されていたので、筆者が図1のように図に構成してみた。これは、その年に医療過誤を訴えた773ケースの分析結果である。鑑定委員会の審査によって医療過誤が認められたものは37%となっており、最終的に調停が成立しないで裁判になったケースは約10.5%である。このような傾向は、全国的にほぼ共通しているといえる。
このように、訴訟の割合を10パーセント程度に減少させることができたのは鑑定委員会、つまり調停の大きな成果と言える。
図1 医療過誤に対する鑑定委員会の実績 1995年
ノルトライン医師会(人口930万、実働医師数32,332)
苦情約1300件のうち医療過誤を訴えた773件について
鑑定委員会が裁判外紛争処理として扱った結果
773ケース(100%)
|
苦情約1300件中の 60%
|
|
287(37%) 医療過誤を認めた
|
|
450(58%) 医療過誤が否定
|
483ケースのうち
|
|
36(5%) 医療過誤が確定できない
うち 3 医療過誤はないが説明不足
|
54(11%)がさらに事件を追及した=訴訟
|
|
290(38%) 患者にとって好ましい結果
|
214(84%)の損害をうけた患者は賠償保険の損害及び慰謝料の請求が適用された
|
上記終結後81ケースが裁判所に訴えた。訴訟割合は10.5%に減少
|
裁判所の判決の90%は鑑定委員会の判定に沿った結論となった
|
医療過誤がみとめられただけで満足し金銭を請求しない人がかなりいる
|
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Berner:ドイツ医師会雑誌 1999年8月30日
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IX 米国の裁判外紛争処理
最近わが国でADR(alternative dispute resolution)という名称で裁判外紛争処理が取り上げられてきているが、現実にどのような検討がなされているか筆者の不勉強のため、その詳細は把握していない。また、米国で調停arbitrationと言われているものが、どの程度紹介されているかについても不案内であるが、仄聞するところでは情報は十分とはいえないようである。
筆者は米国のarbitrationの片鱗を知る偶然の機会に恵まれたので、学術的とは程遠い内容ではあるが、それについて経験談という形式で紹介することにする。
それは1999年の秋に私の友人である堀江司医師と昼食を共にしたことから始まった。堀江医師は日本の大学卒業後米国に留学し、内科専門医の資格を得てメイン州で30年あまり開業された方である。堀江医師が食事をしながら喋ることを私は必死になってメモしたが、その中に米国のarbitrationの紹介があり、その要点は以下のとおりであった。
メイン州では、患者が裁判所に直接訴えても受け付けてくれない。裁判所は、あらかじめmedico-legal panelで審査を受けるように指示する。Panelは法曹の者と医師で構成され、委員はボランティアで無報酬。審査の費用は無料。Panelは医療過誤かどうかを判定する。訴えのなかに医師免許や資格に関わるようなことがあれば、当局に報告する。Panelは中立的に判断するので、一般からの信頼は厚い。
Panelの判定は裁判の判決のような拘束力はない。
医師に落ち度がないとPanelが判定すると、裁判に持ち込んでも患者に勝ち目はほとんどない。Panelの経費は医師から徴収するが、訴訟が減るので医師は納得している。
以上の通りであったが、そのころ私はドイツの事情をほとんど知らなかった。その後ドイツに鑑定委員会というものがあり、堀江医師の述べたpanelと同じような手続と機能を持ち、裁判外紛争処理を成功させていることを知った。そして、2003年にドイツの鑑定委員会を紹介する内容の手紙を堀江医師に送った。同時に、藤田康幸弁護士が教えてくれたニューヨークタイムズ紙の2003年3月16日号に載ったarbitrationの記事も送って意見を求めた。
ところで、堀江医師の奥様は麻酔科医であった方で、arbitrationに興味を持ち勉強しておられたので、ご主人の堀江医師を通して以上のような貴重な情報が得られたのである。堀江医師は私の手紙を奥様に見せたところ、間違いはなく、別にコメントすることもないとのことであった。そして、米国のarbitrationやドイツの鑑定委員会は良い制度だと思う、判定が早いし、患者も医師も別に弁護士に費用を出す必要もなく、ほとんどのケースがarbitrationで解決するのですから、と結んであった。
その後、米国の医事に関する司法制度を州別に紹介したインターネットのサイト9)でarbitrationの項目(これも藤田康幸弁護士が教えてくれた)を調べる機会を得た。筆者は米国の法制度や法律用語を全く知らないので、内容を把握することが難しかったが、arbitrationに関していうと、その制度は州によって著しく違うことが明らかになった。例えば、ニューメキシコ州では、裁判の前にarbitrationを行うと一行書いたあるだけの単純明快なものであった。全部の州に目を通す余裕はなかったが、多くの州ではarbitrationも行うことができるという表現になっていて、arbitration採用の程度やその重みは様々である印象を受けた。極端なのはペンシルバニア州で、arbitrationという制度は、憲法で定められた裁判権を侵すという考えもあると書いてあり、arbitrationに否定的である印象を受けた。それと関係あるかどうか分らないが、ペンシルバニア州では医師が医療過誤で訴えられるケースが多く、賠償保険の保険料の値上げが続き、医師の中には他の州に逃げていきたいと言う者もかなりいるという。堀江医師の住んでいるメイン州は、逃げていきたくなる先の州になるらしい。
このように米国の制度は州によって著しく異なるので、巾広く研究することが必要である。上述のニューヨークタイムズには、arbitrationがうまくいかない州のことが紹介されていた。そこでは、調停委員に報酬を支払っているが、報酬額は次第に上昇するため、患者費の負担は大きくなる。しかも、arbitrationは判決のような拘束力がないので、もし不調に終って裁判を起すことになると、患者はarbitrationと裁判の費用を二重に負担することになり、arbitrationにかかった費用が無駄になる。また、委員に報酬を支払う制度だと、次期も委員に選ばれたくなり、判断に迎合的な要素が入りうる、ということも書かれていた。ドイツやメイン州では委員は無報酬である。私たちにとっては考えにくいことかもしれないが、調停やarbitrationを運営する人間の叡智なのかもしれない。
昨今、日本でもADRあるいは第三者機関による医療事故の処理が大きく取り上げられるようになってきたが、外国の事情をよく分析しながら日本が何を目指したらよいかを考えてほしい。
医師の職業義務と日常の医療倫理は常識的に分っていることが多いが、これを守れない医師はどこの国にもいる。ドイツなどでは、これを明文化して義務づけ、各種の懲戒制度によってその質を確保している。日本では明文化されていないためその判断基準は不明確であり、義務づける手段と力を欠いている。具体的で実効のある制度を作らなければ、医の倫理の混沌は百年河清を待つ結果となるだけである。
本文では述べなかったが、ドイツでは医師の懲戒制度は弁護士と同質で、いずれも法律によって規定されている。日本の弁護士法もこれに倣って法律で定められているが、医師には及んでいないため、行動の遅い医道審議会に頼らざるをえなくなっている。この辺の分析については後日報告することにする。
医事の裁判外紛争処理は、患者にできるだけ経済的、労力的負担をかけずにその苦情を訴えることができて、しかも速やかに処理できるシステムが望まれる。このような制度は1970年代に米国とドイツで試みられたが、ドイツでは成功して定着し、一方米国では全般的にみて成果を挙げていない。その意味でドイツの制度に魅力を感じるが、ドイツのような制度を実現させるためには、例えば書類審査だけで審理が可能となるような診療記録作成が医師の間で定着すること、鑑定が適正な鑑定料を定めて迅速かつ厳格に行われること、中立的な審査が行える人材を配置することなど、日本の現状をはるかに超えた医学教育と倫理義務の向上への努力が伴わなければならない。
文献
1. 岡嶋道夫ホームページ http://www.hi-ho.ne.jp/okajimamic/ ファイル D101, D118, D119
2. 同上、ファイル D127
3.
同上、ファイル D122
4.
同上、ファイル D123
5. Heile, B., Mertens, K., Pottschmidt, G. & Wandtke, F.: Sammlung von Entscheidungen der Berufsgerichte für die Heilberufe - HeilBGE
-. Deutscher Ärzte-Verlag, Köln, 1999.
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