Homepage雑報リストへ
このファイルは: http://www.hi-ho.ne.jp/okajimamic/m426.htm
M426
ドイツにおける裁判外紛争処理とそれに関連する事項
東京医科歯科大学名誉教授 岡嶋道夫
本資料作成の経緯について
平成19年3月、厚生労働省は
「診療行為に関連した死亡の死因究明等のあり方に関する課題と検討の方向性」
というテーマでパブリックコメントを募集した。これは最近大きな問題となっている診療関連死の届出、死因究明の調査方法とその組織、再発防止、行政処分、民事紛争及び刑事手続などについて、裁判外紛争処理も含めて、今後の施策に当っての意見を求めるものであった。
筆者はドイツの制度を調べているが、ドイツはこれらの問題を厳格に、しかも効率的に処理するシステムを構築しているので、その立場で日本の問題を眺めてみることにした。両国の医療事情はいちじるしく異なるので、今回の施策に直接参考となることは少ないが、将来への視野を広げるのに多くの示唆が得られるものと思い、厚生労働省へ送付することにした。
その内容は目次に示すように巾広いものになっているが、日本で報告されたり、論じられたことのないものも少なくないと思う。舌足らずの記述もあるが、今回はこの程度でまとめた。
厚生労働省のホームページに掲載されたコメントでは投稿者は匿名となっている。また他資料へのリンクが無効になっているので、このファイルのリンクをご利用いただきたい。このファイルでは誤字を訂正しているが、内容的な変更は行っていない。
2007年5月30日
筆者 okajimamic@hi-ho.ne.jp
|
目次
はじめに
1.ドイツの死亡診断書と記入要領 医療事故の場合
2.医療事故で患者が死亡した場合は?
3.裁判外紛争処理の成果 死に至らない診療過誤も含めて
4.病院における安全管理と質向上
5.ドイツにおける裁判外紛争処理の事例
事例1 心筋梗塞 事例2 褥創 事例3 腸手術
6.裁判外紛争処理への追加
7.カルテ記入が正しく行われていれば
8.医事紛争と賠償の額
9.ICD−10 Y60以下との関連は?
10.鑑定について
11.医師の自律規範と日独比較
おわりに
はじめに
意見募集中の案件に対して直接的な意見を提示する体裁にはなっていないが、関連する諸問題にドイツがどのように対応しているかについて、筆者の知る範囲で書くことにした。
日本とドイツの社会は類似した法体系の下あると考えられるが、医療の現状には大きな違いが存在する。ドイツの医療は充実した医学教育と先進的な医療制度に支えられて、国際的に高い水準に達している。医療事故に対する裁判外紛争処理は、ドイツが1975年以後もっとも力を入れている制度の一つであるが、担当者の努力の結果、患者と医師の双方が満足するレベルに達し、患者の権利への配慮、医療安全へのフィードバックなど、大きな成果をあげているので、そのシステムとその実現を可能にさせている各種の要素について述べてみたい。
ここでの記述は、現在わが国で目指している施策に直接結び付けられる性質のものではないが、その中から何らかのヒントを得ることは可能であり、また将来の構想を模索する場合に新しい視野を提供できるのではないかと考える。
1.ドイツの死亡診断書と記入要領 医療事故の場合
今回の課題は医師法21条に関連があるので、ドイツの死亡診断書について触れてみたい。日本と違って、他の諸国と同じように死亡診断書と死体検案書の区別はない。
医師法21条の「異状」の意味が大きく問われているが、筆者の印象では「異常」と発音が同じであることもあり、何となく「悪いこと」「嫌悪すべきこと」のニュアンスを醸し出しているように感じられる。この表現が、ドイツなどのように「自然死でない場合」と科学的に書かれていたら、現状のような混乱はある程度まで避けられたのではないだろうか、と考えさせられる。
ドイツの死亡診断書とその記入要領の全訳は筆者のホームページで示したが、用紙は5枚のカーボンコピー方式になっており、1頁目とそれ以下の頁では記入項目が異なるなど複雑な書式になっているので、その辺は写真でご理解をいただきたい。
ところで、ドイツの死亡診断書では、死亡の種類の記入欄は、
自然死 自然死でない 自然死か自然死でないかは不明
の3分類になっていて、日本のように医師が自殺、他殺、災害死などの分類を書き入れる必要はない。ドイツの場合、「自然死」というのは法的に問題となるような外的要素がないということを意味するだけであって、「自然死」や「自然死でない」についての法的定義はない。自然死でない場合の詳しい分類は、捜査能力を有する警察が行うことになるが、これは日本と実質的に同じである。
米国では自然死でない場合は監察医かコロナーに届出るが、届出を要する条件は、州によってその表現が著しく異なっている。米国の監察医はある程度の捜査機能を有するが、犯罪を知ったときは警察に連絡して捜査を依頼する。
ドイツでは、医師は死亡診断書の下記のようなエピクリーゼの欄に記入する義務があるが、記入要領には、「医師には犯罪あるいは法律的な立証を求めない;記述は、不自然死に関して捜査をさらに行うかどうかの決定に当たっての助言を求めるだけのものである。」と明記してある。
死亡診断書(N-W州)の一部
20 エピクリーゼ(epicrisis症例の分析的批判的総括)
死因に追加する事項(用紙I 項目14)で必要であれば
(例、災害、中毒、暴力、自殺ならびに医学的処置の合併症):_________
傷害の外的原因(経過について述べる):___________________
中毒の場合は方法についても付け加える __________________
|
この死亡診断書は1997年に改定されたものであるが、それ以前には医学的処置の合併症という項目は存在しなかった。
同上の死亡診断書の記入要領には次のような注意事項も書かれている
10.
意図的に不正な記載を行うことが犯罪行為であることは明示されている。
11.
死亡の種類が不明、あるいは不自然であるときは、医師は −刑を無効にする行為という非難を受けないために− 死亡を確認したあと直ちにそれ以降の死体の検査を中断し、遅滞なく警察に通知し、警察の到着まで死体や発見現場に変化が加えられる可能性を防止する。死体の個人識別が明らかでないときは、医師は警察に通知しなければならない。
また、教科書などには、死亡診断書を書く場合、医師は患者の主治医というそれまでの関係は打ち切られ、国家に代わって死亡を確認するという厳正な任務を行う立場になる、という心得が述べられている。
2.医療事故で患者が死亡した場合は?
Madea & Dettmeyer(2003)は、ドイツ医師会雑誌に「医師による死体検査と死亡診断書」という長文の論文を書いている。その主たる目的は、不十分な死体検査のために多数の犯罪が見逃されているので、死体の外表の検査を詳しく行うように、という指導である。そのような関連で死亡診断書に次のような記入項目が2004年に追加された。
『私は背部、頭皮部及び全身の開口部を検査しました。 □はい □いいえ』
この論文の最後に、「医原性iatrogenの死亡が疑われる場合の行動」について述べているので、その部分を紹介する:
『重症でなく、死を予測しない状況で患者が死亡した場合、処置した医師は原因が分からなかったり、全貌を把握できなかったりする。このような場合は、たとえ担当医がそれによって、場合によっては刑事捜査にさらされることになっても、「死亡の種類(自然死、自然死でない、自然死か自然死でないかは不明、の3分類)」は不明ということで捜査当局に届出る方がよい。
ドイツでは、誰も自らを刑事捜査にさらけ出さなくてもよいという法制度が適用されているが、同時に死体を検査する医師に対しては、検査に当って慎重かつ良心に従って判定することが適用される。これは医原性事故を引き起こした医師においても同様とされる。
通常の死体検査ですむか、それとも検事捜査手続の対象となる危惧があるかの対立となる。そのような利害対立の中にある医師は、同僚医師に死亡の状況についての情報を伝えて死体検査の実施を依頼することもできる。病院では業務指導として、そのような場合に当該医師自身が死体検査をしないと規定したらよい。
死亡の種類を自然死にしてしまって、不愉快なことを避けて通ろうとすることは思い止まるべきである、なんとなれば −後になって医師に対する容疑事実が騒がれるようになり、死亡例が当局の知るところとなるかもしれない− 医師が診療過誤の可能性を隠蔽しようとしたという不信にさらされることになるからである。
死因が客観的に解明され、これらの基礎の上に診療過誤の問題、診療過誤と死を来たした因果関係が明らかになる。
そのような場合に法医解剖の実施が医師の利益にも役立つ、それは解剖によって基礎疾患と死因が客観的に解明され、これらの基礎の上に診療過誤の問題と診療過誤と死を来たした因果関係の状況が明らかになるからである。』
Madea, B. & Dettmeyer,R.:
Ärztliche Leichenschau und Todesbescheinigung. Deutsches
Ärzteblatt 100(48): A3161-A3179, 2003.
以上とは別になるが、早稲田大学法学部卒業後ドイツの医学部を卒業し、ドイツで30年あまり開業していたドイツ人医師故柴田三代治氏は、数年前日本の新聞を見て、質の低い医療事故が多いことに驚きを示していたが、ドイツでは失敗は罰せられない、しかし医学の基本能力に欠陥があると認められれば罰せられる、と述べていた。
多くの国の拘束力を有する職業倫理規則では、医師は常に自分の能力の限界を知らなければならない、能力の限界を超える時は他の人に依頼しなければならない、という趣旨の規定が存在する。医師免許は、医師として自立して行動できることの証明であるが、同時に自分には何ができて、何ができないかを医学的に見極める能力を身につけることも求められる。米国で医学教育を受けた赤津晴子医師も、このような医学的認識が持てるようになることが卒前教育の目標の一つであって、医師免許の条件であることを講演で強く述べていた。この認識は医師にとって生涯必要である。ドイツの部長医は、部長就任時に病院開設者との間で部長医契約という膨大な内容の契約を結ぶが、配下の医師がその能力に応じた研修と業務を行うように監督する責任がその中に含まれている。
日本では自由標榜制が残存し、欧米のような専門医制度と卒後研修規定が未熟であるため、患者の安全を守るのに必要とされる能力を身につけているかどうかを自己評価する意識が不十分のまま、研修不足や実力不相応の医療行為を行って発生する事故が少なくないのではないかと推測される。このような認識不足は卒前・卒後の医学教育環境にも由来すると思われるが、それをどの程度まで医師本人の基本的能力の欠陥とみなすかが問題である。医師としての基本的欠陥とみなした場合、懲戒ないし刑事的制裁の対象として扱うべきかどうかを検討する必要がある。またそれが損害賠償請求権の対象になるかについても明らかにする必要がある。
3.裁判外紛争処理の成果
死に至らない診療過誤も含めて
死に至らない診療過誤を訴える患者の数は多い。このような場合、民事裁判になる前の裁判外紛争処理ADRが注目されているが、それにはmediationやarbitrationなど、色々な方法がある。日本では、目下のところmediationについて実用化への積極的な試みがなされているが、arbitrationについては情報が少ない。Arbitrationは米国の一部とドイツ全体で実施されているが、ドイツではこれによって訴訟の数が著しく減少し、この解決方法に患者も医師も一応満足しているという大きな成果を挙げている。このようなドイツの裁判外紛争処理については、畔柳達雄(1995,1998)が現地において実務に関するプロセスを仔細に調査しており、我妻学(2004)はその組織、処理手続、成果、統計などを余すところなく紹介している。
畔柳達雄:現代型不法行為事件と裁判外紛争処理機構―ドイツにおける「医療過誤鑑定委員会・調停所」管見―.判例タイムス、No.865: 38-69、1995.
畔柳達雄:ドイツにおける「医療事故鑑定委員会・調停所」管見(続報).法の支配、No.111: 1-57、1998.
我妻学:ドイツにおける医療紛争と裁判外紛争処理手続.東京都立大学法学会雑誌 45: 49-97、2004.
ドイツの裁判外紛争処理は、各州が州医療職法の中で、州医師会がそのような機能を設けることを義務づけていることから出発する。州医師会に設けられた鑑定委員会または調停所とう名称の委員会によって行われるが、州によってこのように名称が異なり、委員構成や審査手続も多少異なるが、本質的には同じ機能を発揮しているといえる。
患者が鑑定委員会・調停所に苦情を訴えれば、無料で審査をするので患者に経済的な負担はかからない。医療過誤の訴えに対して、鑑定委員会・調停所は患者記録などの関連する資料を取り寄せるが、当該医師の前後に診療した医師や病院の記録も集める。請求された医師はコピーを作成してオリジナルを提出する義務があり、守秘義務から解除されることが規則に明示されている。
審査は書面審理が原則であるが、多くの場合鑑定が行われて判断の基準となる。弁護士費用は当事者が負担するが、この段階では弁護士を頼まなくて済む場合が多い。裁判外紛争処理で医療過誤が認められる割合は約30%である。裁判外紛争処理は医療過誤があるかないかを判断するだけで、損害賠償や慰謝料の額の算定には関与しない。
委員会の決定で診療過誤が認められれば、患者はそれを根拠にして損害保険会社に対して損害賠償・慰謝料の請求を行うことになるが、その折衝は素人には難しいところがあるので、この段階になって弁護士を依頼することが多い。一方、医師の方は、裁判外紛争処理で弁護士を依頼することはほとんどない。
しかし、裁判外紛争処理の決定は、裁判所の判決と違って拘束力を有しないので、その決定に納得できなかったり、損害賠償の額に不満であったりすれば裁判となる。裁判に移行するケースは10%から15%程度であるが、裁判所の判決の90%近くが鑑定委員会・調停所での決定に沿った形となっている。しかし、裁判では、裁判外紛争処理でなされた決定は考慮されない。
鑑定委員会・調停所の経費は医師会が負担し、医師会の建物と職員を使って行われる。審査の核心となる鑑定は頻繁に行われるが、鑑定料は法律で規定した計算方法で算定され、医師会または損害保険会社が支払うので、間接的に医師が負担していることになる。
膨大な作業を行う鑑定委員会・調停所の委員は、通常医師及び法律家(定年退職した裁判官と規定している州もある)であるが、医師会の他の委員会の委員と同様に無報酬である。米国の一部のように、委員に報酬を支払い、それを患者に負担させると、裁判外紛争処理のあとに裁判に移行した場合、その分の患者の負担は無駄になった結果となるが、ドイツではそのようなことはない。
医療過誤の訴えは州によって数が異なるが、大雑把に言えば人口1万につき年1件強といった程度である。その数は毎年増加の傾向にあるが、ノルトラインの医師会の分析によると、患者の権利意識の向上によるところが多い。しかし、医師と患者の接する頻度の上昇を考慮に入れると、医療行為数に対する医療過誤数の割合は増えていないという安心感を示している。また、2006年の報告書では増加が止まったようにも見受けられる。損害賠償・慰謝料の額については後述する。
以上のようなドイツの裁判外紛争処理は、理想に近いものと言えるかもしれないが、わが国への導入を考えてみると、以下のような理由で困難であると思われる。
ドイツでは書面審理が主で、カルテなどの患者記録に基づく審査である。これは口頭審理の場合のような交通費は省けるし、出頭する当事者の時間調整に費やされる審理延長もないという利点はあるが、このような審理方式にはすぐには馴染めないであろう。
わが国のカルテ記載は不十分であり、カルテ改ざんに対する罪の意識が低く、無処罰に近い現状では、書面による審理は大変困難であると思われる。
医師が診療記録を提出してくれない場合が少なくないと思われる。
信頼できる医学鑑定を得ることが難しい。
ドイツのように、患者の経済的及び労力的負担を軽減し、訴えやすくすることは、弁護士を依頼したり、証拠保全に費用と手間を掛けなければならない日本の現状では難しい。ドイツの裁判外紛争処理は、医師が裁判のように対立するのではなく、協力することで成立している平和的な解決である。
委員に無報酬(ボランティア、名誉職)で働いてもらう習慣がない。
以上、裁判外紛争処理を詳しく紹介したが、今後日本で求められることは、ドイツのように、死に至らない比較的軽微な診療過誤においても患者が訴えやすくすることであろう。
4.病院における安全管理と質向上
ドイツの病院はリスクマネージメントに熱心に取組んでいる。その一つは、患者が入院した場合、全員に医療事故報告用紙が割り当てられ、入院時から病院を離れるまでの間に起ったあらゆる事故を記入することが義務づけられたことである。事故が起ったときだけ報告するのではない。
報告書用紙は、転倒(その状況やその前の服薬など)、処置や投薬に伴う各種コンプリケーション、院内感染、放射線関連の問題、その他の項目に分類されているが、例えば自殺兆候や褥創/程度など、数多くの事項について細かく記入することになっている。この報告書の作成は厳格に守らなければならない拘束力(スタンダード)を有している。この用紙はドイツ病院協会が販売しているが、カーボンコピーの4枚構成で、宛先は患者記録、質マネージメント係、看護業務指導部及び家庭医となっている。
5.ドイツにおける裁判外紛争処理の事例
ドイツでは裁判外紛争処理の事例を発表し、医療過誤の再発防止に活用する努力がなされている。いくつかの鑑定委員会・調停所は扱った事例をホームページや出版物で発表している。また、医師の生涯研修でも、このようなケースが頻繁に取り上げられている。
筆者は120件以上の事例報告の中から、専門にあまり偏らないと思われる題名の事例を3例読んでみたが、その内容は以下に示すとおりで、いずれの事例も大変示唆に富むものがあり、ドイツの医療レベルを伺い知ることができる。今後4例目、5例目と読み進めれば、さらに多くのことが学べそうである。
事例1.北ドイツ調停所の報告
「一般医学(家庭医)−心筋梗塞における医師能力の不足」
胸部疼痛の10%が心筋梗塞や肺塞栓症によるが、家庭医はその危険に常に注意し、対応できるようにしなければならない。以下翻訳を省略するが、「患者への誤解のないような助言・・・、このような助言を行ったことをカルテに記録することも必要」といった基本的一般事項を冒頭に記述している。
因果関係
45歳の患者が2000年8月5日に救急業務当番についていた家庭医で受診した。上半身全体と両手ならびに頭部に広がる胸部の疼痛を訴えたが、心電図も検査した。この患者は同年8月7日に再度受診したが、改めて心電図などの検査を実施した。医師は2,3時間後に患者を病院に送ったが、患者は病院まで自家用車で行った。 その医師は、心筋梗塞が最初の検査で認めらないとしたために治療が遅れたという非難を受けることになった。
医師は患者の非難に対して、患者は胸部と背部の痛みを訴えていたが、右腕に放散する不快感や発汗はなかった、そして心電図を含めた臨床的検査ははっきりしないものであった、8月7日の再検査によって始めて明瞭になり、更なる検査を指示し、病院転送に至った、という見解を示した。
鑑定人
これに対して鑑定人は、8月5日にはすでに病院転送が必要であって、それをしなかったのは回避可能な過誤とみなされるという鑑定結果を出した。 鑑定の細部によると、8月5日の心電図にはすでに梗塞を示すものがあった。その時の患者の訴えと合わせると、その時点で強制的に病院へ転送することが必要であったと思う。このようなケースに対して定められた患者搬送の手段を選択すべきであった。8月7日に自家用車で病院に搬送したのは過誤であると鑑定人は認定した。【筆者:ドイツの救急車には、医師同乗の救急車、救急士だけの救急車、救急士は乗っているが患者を病院に搬送するだけが目的の救急車の3種類がある。この鑑定人は、心筋梗塞のような緊急性のある患者の場合には、医師同乗の救急車を手配すべきであるのに、これを怠って自家用車で時間をかけて病院に行かせたことを過誤と認定したと思われる】
鑑定人は、心臓学的所見にもとづいて、患者には医師の過誤によって継続的(あとに残るような)健康障害は発生しなかったものとした。
調停所
調停所はこの鑑定書を受けて、同様に、回避可能な過誤が存在したとした。その過誤というのは、最初の心電図の誤った解釈、8月5日に病院へ転送しなかったこと、ならびに8月7日に起った転送のさいの不十分な搬送条件である。調停所は、心臓の臨床所見により、患者の健康障害は2日間続いた胸部の回避可能な疼痛に限定されるとした。そして調停所は、患者の請求権はこの点(2日間の苦痛)に関するかぎりでは根拠があると考えた。
Prof. Dr. med. Gisela
Fischer 調停所の医師委員
Erschienen im
Niedersächsischen Ärzteblattニーダーザクセン医師会誌: 07/2003 に発表
本件では後遺症のような障害は残らなかったが、最初の診断の誤り、救急車手配の不備といったものを過誤として指摘しているので、日常の診療における注意義務が具体的に示されていると言える。患者は、調停所のこの決定に基づいて保険会社に損害賠償または慰謝料を請求したと思われるが、そこまではこの報告書では述べられていない。
事例2.北ドイツ調停所の報告
「褥創予防―賠償責任法の視点」
因果関係
72歳の女性患者が両側の股関節と膝関節の疼痛性収縮を伴った股関節症で歩行不能。強度の栄養及び体力減退で下肢筋肉の顕著な不活動性萎縮。その他に高血圧、糖尿病及び慢性線維化性肺炎があった。人工股関節装着で痛みを除き、再可動に努める予定であった。入院時には褥創はなかった。
患者は入院の翌日に手術(片側に人工股関節を装着)。術後2日目に尾骨部に初期褥創が確認された。これはその後の3週間の入院治療で治癒した。術後4日目に他の褥創が右踵に確認された。この潰瘍は長期間治らなかった。踵の褥創を確認した日に看護業務により所定の用紙で「褥創申告」がなされた。 この申告の受取人はこの用紙からは明らかでない。さらに、褥創の確認された時点で、褥創リスクの決定がNortonスケールによってなされた。評価は19点で高いリスクであった。
患者の家族は上記の病状からすでに手術前に高い褥創のリスクが始まっていたとした。手術前にも手術後にも褥創予防の処置は取られなかった。もし、これが行われていたら、予防できたかもしれない。褥創が現れたことにより損害賠償請求が生じてきた。しかし、褥創の治療についての苦情は言われなかった。
請求を受けた病院の側からは、褥創は適時に発見され適切に処置されたという看護報告に関連した医師の見解が出された。請求者がはっきりと訴えた褥創予防の不作為については、この書類では触れていない
鑑 定 人
調停所から依頼を受けた鑑定人は、診療記録を評価して記載不足を確認した。医師の経過報告と終了報告に褥創の出現、所見記載及び処置に関する記述がなかった。看護記録では、術後4日目に踵の褥創が出現した後に初めて褥創について報告している。この時点から看護側で予防及び治療処置の正確な記録がなされている。鑑定人は、最初の5日間に褥創予防が記録されていないことを評価から外した。寝かせられている体位であるから、はじめから高いリスクが存在したはずである。両方の褥創はこの高いリスクに起因するとした。そして鑑定人は、診療過誤が認められないとした。
調 停 所
調停所は、医師の処置に過誤がないという立証を受け入れることが出来なかった。治療記録の中には、治療5日目の褥創確認までは計画的な褥創予防の指示や実施が全く示されていない。ここに法律的に決定的な記録不足が存在する: 連邦通常裁判所(BGH)の判決(1986)によると、「褥創の深刻な危険が存在する入院患者の病歴の中に、危険な体位(褥創−リスク)と医師が指示する予防処置を記録する」と書いてある。
本件における記録不足は、立証責任を医師側に移すことになる。鑑定人は、正しい褥創予防をしていても褥創の発生は起りうるということを承知している。しかし、この場合は、不作為の予防が、現実に褥創を発生させたとするのが適当であるとした。そのようにすることにより、立証責任転換の立場を根拠として因果関係が存在するものと認められた(立証責任転換については下記筆者注参照)。それにより請求権があるとされるのは以下のとおりである:
- 褥創によって生じた疼痛
- 踵の褥創が治癒するまで退院時期を超えた治療期間の延長
- 踵の褥創による再可動の侵害
調停所は、損害賠償請求はこの範囲では根拠があると考え、裁判外の調整を薦めた。(筆者:保険会社と損害賠償・慰謝料について折衝することを申立人に薦めたという意味である)
Prof. Dr. med. H. V. 調停所委員
Erschienen
im Niedersächsischen Ärzteblattニーダーザクセン医師会雑誌: 02/2004に発表
筆者注: 立証責任転換というのは、患者にとって負担の重い立証責任を軽減する方法であるが、連邦法務大臣と連邦保健医療社会保障大臣の連名によって2003年に出された「ドイツにおける患者の権利 患者と医師への手引き2003」(通称患者の権利憲章)に書かれている箇所を引用すると以下のとおりである。
「損害賠償請求権は、裁判外または裁判において行使することができる。・・・医師損害賠償請求訴訟では、患者は原則として医師の義務違反、生じた損害、損害に対する過誤の因果関係、ならびに加害者の過失を述べ、否認の場合は立証しなければならない。重大な診療過誤が存在するような場合などには、患者のためになるように、立証責任の転換(Beweislastumkehr)、つまり加害者が反証しなければならないこと、に至るまでの立証責任の緩和が作動する。争われている場合には、患者へ規則に適った説明をしたことの証明は、診療をした医師に義務がある。記録に欠如があるときは、医師に対して、記録されてない処置は行われなかったものと推定される。」
本件の場合、医師の記録に褥創についての記載がなかったので、立証責任転換により医師側に立証責任が移り、医師は褥創に対して予防を含めた処置をしていなかったとみなされたことになる。医師が、その時気がついていたが、カルテに記入しなかっただけだと主張しても、裁判所は記録されていない事実は観察しなかったこと、処置しなかったこととみなして患者に有利に判断するのが立証責任転換である。この場合、医師が踵の褥創に気づいて予防をしていたように後日病歴に書き込むようなカルテ改ざんを行うと、刑法の不真正文書作成(ファイル5頁の付記に条文の訳)に関連した刑事事件の被告にされて大変なことになる可能性がある。ドイツの医師はそのような危険を冒すことはしないで、たとえカルテに不備があるのに気づいても、そのまま提出する方がよいと考えている。
事例1と2の出典:北ドイツ調停所
事例3.ノルトライン鑑定委員会の報告
「腸切除の過誤 ガンの確認をしないで行った回避可能な根治手術」
事件経過
70歳の男性患者。内科医が便潜血反応の陽性を認め、内視鏡検査のため病院の内科部長医に紹介した。7月14日の検査で右大腸に出血性で短い有茎性のクルミ大の腫瘤を確認。接触性出血のため組織検査用の試料が採取できなかった。そこで開腹による切除を提案した。
7月17日に内科に入院。前年経験した心筋梗塞と以前の心血管疾患のため手術の適応を検討したところ、問題なしということで7月23日にその病院の外科に転科した。
手術処置
手術は7月25日に行われた。手術報告書から以下のような経過が分かった:開腹後、腹腔臓器を触診、上行結腸を半ば上行した部位に、腫瘤を触れた。ガンの転移は確認できなかった。悪性腫瘍を想定して、横行結腸の半分まで上行結腸を含めて剥離し遊離させた。これに先立ち、胃大彎を剥離し、Arteria colica
mediaを確認し、横行結腸の切除予定箇所を糸で印をつけた。続いて、虫垂と大腸の上行部を後腹膜から剥離、上行結腸の彎曲部と横行結腸を剥離する際に静脈性出血が起った。その時点まで助手であった部長医は、術者となった。Overholt鉗子をセットするときに、Vena mesenterica
cranialis(V.m.c.上腸間膜静脈)につながる出血中の損傷がさらに広がった。状況の詳しい描写によると、出血している静脈は非吸収性糸(Prolene 5x0)で結紮された。
出血が止まったあと手術は進められた。そのさい、術者は、切除予定の境界である回盲弁より口側10cmからさらに15cmほど上部に至る小腸が血流不足を示唆するような青色になっているのを見つけた。そのため、この部の腸はあとで切除した。続いて小腸は横行結腸とstapling deviceで継ぎ合わせ、大腸と小腸の開口部は閉じられた。手術の終わりごろに、術者は結紮した腸間膜静脈部を調べて出血していないことを確認した。腸吻合部の近くと小骨盤のドレーンは、右腹部の別の切開創から体外に誘導した。術創を閉じたあと、患者は人工呼吸器をつけて15時ごろに集中治療室に移された。
切除された腸の病理組織検査で3.8cm大のポリープがあり、組織学的には良性のtubulovillous adenomaであった。前ガン段階の異型性細胞は、組織標本で確認されなかった。
再手術
65/30mmHgという低い不安定な血圧は輸血、輸液及び強心剤(Dopamin)で対応。しかし、16:45ごろに大量の腹腔内出血により強いショック状態となり、止血のための再手術の適応となった。
開腹すると、腹腔に1,200mlの新鮮血が貯留していたので、これを吸引した。ついで、出血している血管を見つけた。血管縫合で止血しようとしたが成功しなかった。そこで、出血部にタンポンをして創を閉じ、患者をヘリコプターで大学病院の外科に移送する決心をした。
大量の輸血と凝固因子で状態を落ち着かせて、7月26日にかけての夜に再手術が行われた。腹膜と小腸すべてにわたって内出血、腸間膜起始部に大量の血液浸潤が確認された。V.m.c.領域は大量の内出血のため十分に状態を把握できなかった。小腸全体の血行不全を明らかにできなかったので、24時間後に腸の状態を再検査することとし、ドレーンをおいて創を閉じた。
7月27日の再手術の際には、V.m.c.が完全に凝血で閉塞し、小腸全体が壊死状態であった。そこで、小腸と大腸の一部を切除し、十二指腸と下行結腸を吻合した。
その後、敗血症性の体温が続いた。その直後から集中治療が続けられ、8月2日と7日に腹腔の手術により修復が行われたが、9月22日に死亡するに至った。
鑑定の結果
大腸内視鏡で見つかった有茎性の大腸ポリープを切除することは正しかった。出血の危険があるのでポリープをループによる切除ではなく、開腹して直視下の結腸切除術も適切であった。
しかし、触った感触だけで、ポリープを悪性腫瘍であるかのように扱ったことは問題である。悪性腫瘍という組織学的証明がないので、上行結腸の根治的摘除は適切ではない。術者は最初に腫瘤隣接部を開き、腫瘍を切除し迅速組織検査をすべきであった。検査結果によって、侵襲を終えるか進めるかの決定をすべきであった。
鑑定委員会はさらにクレームをつけた: 原文が専門的記述で翻訳が難しいので省略するが、結腸処理の手順や要領などについて吟味したところ、不注意な処理に原因する可能性があり、注意深く行っていればそのような損傷は高い確率で回避できたであろうとしている。剥離した大腸部分を持ち上げてみれば、血管をよく見ることができる。たとえ小さな血管が損傷しても、鉗子、結紮またはメタルクリップで比較的容易に止血しうる。
注意不十分によって生じたV.m.c.の開口部に近い静脈の大きい裂傷はOverholtクリップを使うことにより拡大した。そのさいに生じた大量出血のために、手術野を確保することができなくなり、それによってV.m.c.の本管が血管結紮により狭められ、血栓で詰まることが避けられなかった。小腸からの血液の流れが中断され、それが小腸全体の壊死、いわゆる小腸壊疽、となる通常では致命的である合併症を招いた。
鑑定委員会は次のように総括した:
悪性腫瘍の組織学的証明なくして大腸を摘除したことと、V.m.c.の広範な損傷を引き起こしたやり方は非難されるべき過誤と判断される。診療過誤はV.m.c.の血栓性閉塞が原因で、それにより死に至る小腸壊死に陥った。従って、死を来たした誤った医師の処置への非難は根拠のあるものである。
Herbert Weltrich(裁判官) 及びWilfried Fitting(教授、医学博士)
出典:Aus
der Arbeit der Gutachterkommission
für ärztliche Behandlungsfehler bei der Ärztekammer
Nordrhein. Ärztekammer Nordrhein, 2006. (第2版)
6.裁判外紛争処理への追加
ドイツでは医療過誤が訴えやすく、また裁判外紛争処理がその処理に効果を発揮している。それでも10%あまりは訴訟に持ち込まれる。それとは対照的に、医療過誤または説明不足があると判定されたケースの4分の1近くでは、患者は医療過誤が認められたということに満足して、そのあと損害賠償・慰謝料の請求をしていない(ノルトライン医師会の調査)。真実が分かった満足と、自分への過ちが他の人への再発を防いでくれるという愛他的altruistischな心情によるものである。このような心情はわれわれも持ち合わせていると思うが、それには医療への信頼を高めなければならない。
一方、ドイツの裁判外紛争処理を詳しく調査した米国の研究者は、今でさえ高額かつ多数の医療訴訟に悩まされている米国の医師にとっては、ドイツ式の裁判外紛争処理Arbitrationが持ち込まれると、小さな事件でも訴えやすくなるので、その導入には反対という態度を示していると述べている。
ドイツの裁判外紛争処理は、損害賠償や慰謝料を求める目的だけではなく、真実を知りたいという患者の願望も受け入れてくれるから、患者にとって親切でやさしい制度であるといえる。日本ではそこまで考えるだけの余裕がない現状であるが、医療の安全、質の向上、患者の権利を考えた場合、将来の到達目標と考えてもよいのではなかろうか。
7.カルテ記入が正しく行われていれば
以下は筆者の私見であるが、医学的知識の基本に重大な欠陥があれば別として、そうでない失敗や不運といえる程度の事故は刑事的に追求しないという方針が、医療界と検察との間で了解し合うことはできないだろうか。但しその場合、カルテに状況を正確に記載し、後日刑事的あるいは民事的に必要となったときに提出できることを条件とする。カルテに事実を正確に記録して残すことは、医師としての最も基本的な義務であり、事件とは何等関連のないことである。もし、これを負担と感じて否定的になるとすれば、医師の職能団体は医師の義務違反として是正すべきである。
次にドイツにおけるカルテ作成の基本姿勢を示しておこう。ドイツ医師職業規則の解説書(R.Ratzel & H.-D.Lippert, 2002)は次のように述べている。「記録は素人に読めるものでなければならないというものではない。専門的表現は解説しなければならないというものではない:それまでの状況を他の医師が理解できるものであるならば、検索語的記述で十分である。この意味で、専門的な略語や記号を使用して差し支えない。ただし、例えば休暇時の代理医が理解できるように、記録は読めるものであることが条件である。」
上記事例2に示したような患者の立証責任を軽減する立証責任転換によると、印刷された患者への解説用紙が患者記録にただファイルされていただけでは、患者への説明が適切に行われたことが裁判所に信じてもらえないことがある。患者に解説書を渡して読んでおけ、だけでは説明したことにならないことは指針によって明文化されている。また、患者に対して、患者の理解度に応じたレベルで口頭で説明を行うことが指針で義務づけられているので、このようにして説明し、承諾を得たことを記録に留めておくようにと注意されている。
R.Ratzel & H.-D.Lippert: Kommentar
zur Muster-Berufsordnung
der deutschen Ärzte. Springer-Verlag,
2002. (第3版)
8.医事紛争と賠償の額
医事紛争における損害賠償・慰謝料の額は、ドイツと米国との間で大きな違いがある。例えば、ドイツのノルトライン州での額(2000年の概算)をみると、178件のうち87件は75万円以下、80%は225万円以下となっている(表1)。1500万円を超えるものは3件で、7500万円が最高であった。米国では5万ドル(600万円)以下のケースは弁護士が引受けたがらないとのことである。賠償額の違う理由として、米国では将来の医療費、生活費が含まれるので高くなるが、ドイツでは医療費は公的医療保険が保障し、生活も社会保障で守られるので、これらの費用が賠償に含まれないからであるといわれている。
ところで日本の場合はどうなっているのだろうか。筆者は実情を把握していないのでコメントする立場ではない。
表1 損害賠償と慰謝料の額 2000年のケース
ノルトライン医師会(人口950万地区)
(1マルク=75円として)
〜1 (千マルク)
|
〜7.5 万円
|
9 件
|
1〜5
|
7.5〜37.5
|
38
|
5〜10
|
37.5〜75
|
40
|
10〜20
|
75〜150
|
36
|
20〜30
|
150〜225
|
19
|
30〜40
|
225〜300
|
12
|
40〜50
|
300〜425
|
6
|
50〜100
|
425〜750
|
9
|
100〜200
|
750〜1500
|
6
|
200〜1,000
|
1,500〜7,500
|
3*
|
*3件の額: 1,000; 320; 250 千マルク
9.ICD−10 Y60以下との関連は?
ところで、国際疾病分類ICD-10と医療事故との関連はどうなっているのだろうか。ICD-10には疾病の分類だけでなく、外因による死亡の場合の分類が設けられていて、とくに第20章Y60以下には医療事故に関連する分類が詳しく示されているが、今回のような医療事故関連死の議論の中でICD-10との関連について言及された人がいないように思われる。死因の正確な分類は事故の予防にも役立つ重要なものである。死因分類の公衆衛生学的ならびに国際比較的な意義への配慮が忘れられているのではないかと気にかかる。
Y60 外科的及び内科的ケア時における意図しない切断,穿刺,穿孔又は出血
Y61 外科的及び内科的ケア時における不慮の体内残留物
以下続く
ドイツにおけるICD−10による疾病分類は病院だけでなく、開業医においても徹底しているとのことであるが、ICD -10の医療事故関連の死因分類が実際にどのように活用されているかについては、筆者は情報を持合わせていない。
10.鑑定について
裁判外紛争処理と鑑定人の立場
以下は筆者の個人的見解が多分に含まれていることをご承知ねがいたい。
ドイツの裁判外紛争処理は鑑定委員会・調停所の委員と鑑定人によって進められる。ドイツの裁判制度では、鑑定人は裁判官によって任命され、その専門的知識によって中立的に判断し、裁判官を補佐する形となっている。
他方、米国の医事紛争では当事者が鑑定人を選ぶことができる。もし、ドイツのように鑑定人を裁判所が選ぶことになれば、当事者にとっては自分の立場で専門的意見を述べてくれる鑑定人が選べないことになるので、大変心細く感じることになると米国の人は述べている。このような異なった制度の下における鑑定人の立場の違いを知っておく必要がある。
戦後米国の方式を取り入れたので、法廷では当事者双方の弁護士合戦の様相になることが少なくない。そのようになると、筆者の誤解になるかもしれないが、医学的内容の最終判断は専門の医師ではなく、どちらの、あるいはどのような医学鑑定を採択するかは、素人である裁判官の判断にかかってくる。
今更述べる必要のないことではあるが、裁判外紛争の処理に当る者には、厳正中立な判断が求められる。戦後間もないころ、それまでの裁判官が鑑定人を選ぶドイツ式から、当事者が鑑定人を選ぶことのできる米国の当事者方式に変更されたとき、筆者は当時手がけていた認知事件での親子鑑定の鑑定依頼が、それまでの裁判所ではなく、当事者の弁護士から打診されるようになった。裁判官の立場というそれまで堅く守ってきた中立性が侵される思いがして、大変戸惑ったことを思い出す。裁判外紛争処理に当る者は、患者と医師の双方から信頼される中立の意義を改めて意識する必要があるかもしれない。その意味で、上記のドイツの裁判外紛争処理の事例における委員や鑑定人の姿勢は参考になるかと思う。
解剖と鑑定人
ドイツでは古くから、第三者の人権に重大な影響の及ぶ司法解剖は医師2名で行うことになっていて、そのなかの1名は法医学の専門であることが規定されている。両名の間で意見が分かれるときは、両論併記でもよい、と書いてあるのを読んだ記憶がある。一方、死因を究明するだけの行政解剖は1名でよいことになっている。筆者が戦後間もなく法医学教室に入室したときは、司法解剖は鑑定人2名の連記で提出されていた。また、2名ずつ組み合わせた解剖当番表を作っていたが、これはドイツの制度の影響である。20年ほど前、ドイツの法医学教授に他の国では何名で鑑定しているか、と質問した時、即答できないが電話で聞けば簡単に分かると言ってくれた。しかし、当時はその必要性を感じなかったのでお願いしなかったが、今となってみると残念に思われる。
11.医師の自律規範と日独比較
診療行為に関連した事故の中には、医師の能力不足、義務または倫理違反に原因するケースも含まれてくるを考慮し、その場合の対応として医師の自律規範を確立することが求められる。行政処分や刑事事件として処罰されるのを受け入れなければならないが、他者からの処罰をただ受身で受けるだけでは医師としての信頼は回復できない。医師が自らを厳しく律するという自律規範を確立することによって、医師患者間の信頼を回復することができる。
自律規範とは言っても、医師の職能団体に、自分たちだけで作るように、と手をこまねいて期待しているだけでは実現しない。多くの国は法律と結びつける形で自己規制の制度を作って対応している。米国もその一つで、州によって制度に多少の差異はあるが、自己規制を法律で規定して実現させていることを峯川浩子(2005)は詳しく述べている。(この2行の表現を変更)
これに反して、わが国ではこの面での対応に遅れが感じられる。日本医師会にそのような機能を求める要望は強いが、任意加入団体であるために、会員資格剥奪という内部的制裁は可能であっても、医師免許などの資格に関わる処罰に拘束力を持たせることが困難である。そして弁護士会における懲戒規定が引き合いに出されるが、弁護士法は国の法律であるため資格剥奪のような処罰が可能であるし、不服の場合に裁判所へ提訴する手段などが定められている。一方、医師に対しては医道審議会の審査とその適用範囲を拡大する方向が考えられているが、現実に即応できる態勢には達していない。そこで議論は壁に突き当たっている印象を受ける。
峯川浩子:国内外の医療従事者の免許・懲戒・再教育制度に関する研究−医療上の過失と行政処分のあり方をめぐって−.厚生労働科学研究費補助金医療技術評価総合研究事業「国内外における医療事故・医事紛争処理に関する法制的研究」平成17年度分担・総括研究報告書(主任研究員:藤澤由和)187頁以下.
弁護士と医師に対する制裁制度の日独比較
表2は弁護士と医師の義務違反に対する制裁制度を日独間で比較したものであるが、今まで論じられたことがないかもしれない。弁護士に対しては、ドイツも日本も国レベルでの規定が作られている。一方、ドイツの医師に対しては、各州の医療職法という基本的な法律で懲戒規定が制定されている。ドイツでのこの違いは、保健医療の主体部分は連邦でなく、伝統的に州の管轄業務となっているためである。従って、ドイツの州医療職法など、保健医療に関する法規は連邦法規集には収録されていない。各州の法規集を持たないと見ることができない法律であるため、ドイツの医療制度を研究する人たちの目にも届き難かったように思われる。さらに一言付言すると、医師の倫理義務を規定する医師職業規則などは州医師会の規定であるため、州の官報のようなものではなく、州医師会雑誌に掲載されることによって公布されたことになる。したがって、州の法規集にも収録されない。しかし現在は、インターネットによってこれらの資料は容易に入手できる状況になった。
表2 義務違反に対する処罰
|
弁護士
|
医師
|
ドイツ
|
連邦: 連邦弁護士法
|
州: 医療職法
|
日本
|
国: 弁護士法
|
なし? 医道審議会令?
|
表3及び表4に示すように、ドイツの連邦弁護士法と州医療職法の制定内容は兄弟のような類似性がある。一方、日本の弁護士法はドイツの連邦弁護士法にルーツを持つと言われているが、相互の間に基本的な共通点が認められる。この視点で眺めると、日本の医師に対する懲戒規定の欄は空白状態で、性格の異なる医道審議会令によって事後処理的な対応に甘んじてきたと言える。
ドイツにおける医師に対するこのような制裁手続は、多くの場合患者からの苦情によって始まるが、医師会や医師によっても起すことができる。州によって規定内容に多少の相違がある。表3に示した州では、義務違反の軽微なものは会長単独の注意で済ますことができるが、それを超えるものは懲戒委員会あるいは理事会といったレベルで審査される。また、重度のものや複雑なケースは職業裁判所に回し、職業裁判官と医師の名誉職裁判官によって裁くことになる。
表3 義務違反に対する制裁のプロセス
(不適切な用語表現があるかもしれません)
|
弁護士
|
医師
|
ドイツ
|
会長の注意
弁護士会理事会:非難権
懲戒委員会
|
会長の注意
医師会理事会:非難権
懲戒委員会
|
弁護士裁判所:
控訴:弁護士上訴裁判所
上告:連邦通常裁判所
|
医師職業裁判所:
二審制
(それ以上の上告はない)
|
日本
|
弁護士会綱紀委員会
弁護士会懲戒委員会
不服:日本弁護士連合会
不服:東京高等裁判所
|
医道審議会
医師法、医療法、歯科医師法などの他の法律の規定により医道審議会の権限に属する事項を処理
|
表4 制裁の種類
|
弁護士
|
医師
|
ドイツ
|
理事会、懲戒委員会:
制裁の種類は不明
|
理事会、懲戒委員会:
州によって異なるが一例を示すと、
注意
戒告
2,500ユーロまでの罰金
資格や免許の停止(2年まで)
|
弁護士裁判所
戒告
けん責
25,000ユーロまでの罰金
1年〜5年の活動禁止
弁護士職からの排除
|
医師職業裁判所:
注意
戒告
被選挙権の剥奪
50,000ユーロまでの罰金、
職業を行う資格なしという決定(=免許剥奪)
|
日本
|
第五十七条 次の四種とする
戒告
2年以内の業務停止
退去命令
除名
|
― ― ― ― ― ―
|
法律辞典によると、職業裁判所は弁護士と医師だけでなく、会計士、税理士、歯科医師、薬剤師、獣医師にもあり、「職業裁判所は個々の職能団体の懲戒裁判所で、それを純潔に保ち、職業の品位と相容れず、また職業身分の名声を害する行為を罰するためのものである。処罰は通常戒告、罰金さらには職業身分からの排除である。裁判所はその場合、確定した犯罪構成要件と結びつくものではなく、個々の行為をもたらした原因によって処罰できる。」と定義されている。筆者は法律家でないので分からないが、罪刑法定主義を超えて処罰ができるような印象を受ける。
懲戒委員会と職業裁判所は刑事的性格を持ち、賠償などの民事的な事件は扱わない。事件によっては、職業裁判所、刑事裁判所、民事裁判所と重なることがあるが、その優先度に対しては一定のルールがある。例えば、ドイツ連邦医師会の最近のオンラインニュースを見ていたら、ある耳鼻咽喉科専門医が扁桃腺の手術において外科用メスで患者を死なせてしまった。この医師は3年前にも咽頭部の手術で傷害を与えたが、患者は救急治療で助けられた。検察は捜査を始めたが、裁判が始まるかどうかまだ不明、というのがあった。これは特殊なケースであるかどうか筆者には判断がつかない。この後は筆者の推定であるが、もしかすると医師職業裁判所もこの件を扱っているかもしれない。もし刑事裁判の手続が始まるとしたならば、医師職業裁判所はルールに従って刑事裁判所の結果が出るまで審理を停止し、その判決が出たところで審理を再開し、刑事裁判所の判決内容を考慮した形で医師職業裁判所としての決定を行うことになるであろう。
医師会の懲戒と医師職業裁判所の手続は一般に非公開で、結果は公表されないが、これは医師の診療の妨げにならないようにとの配慮であるらしい。また手続記録は、職業裁判所のものは10年、医師会の懲戒は3年経過すると破棄される。
ドイツの州医師会は医師の自治組織であるが、その組織、任務などは州医療職法で規定されていて、州から医師を監督する権限を委譲されている。州医師会はその義務を果たすために、官僚からの支配を受けずに、自分たちが理想と考える各種の規則(職業規則、卒後研修規則、救急業務規則など)を作り、これを実施するという行政行為を行っている(医療費などの制約はあるにしても)。このように、州から医師監督の権限を委譲されているので、医師の処罰も行えることになる。また、最近生涯研修が義務化され、条件を満たさない医師は診療報酬のカット、さらには保険医資格剥奪の処罰を州保険医協会が行えるようになった。この場合も連邦の公的医療保険の法律に、卒後研修の実施と処罰に関する規定が書き加えられ、それによって自治組織である保険医協会が拘束力のある制裁行為を行うことができるようになったからである。
日本の医師会は、任意加入の団体であるため、拘束力を有する制裁行為を自発的に行うことを期待するのには無理がある。ドイツでは職能団体である州医師会は、医師の自治組織であるが、州医療職法により医師の強制加入が規定されているだけでなく、州や連邦の規則で各種の任務が義務づけられているために、拘束力のある懲罰や裁判外紛争処理の実施が実行できることになる。
現状のままでは、わが国に医師の自律規範が確立するの期待するのは、百年河清を待つに等しい。どのような意識改革が必要であるかを論ずる場合に、ドイツにおいて自治組織である医師職能団体としての州医師会が、法律とどのような結び付きをしているかに目を向けてみては如何であろうか。
おわりに
以上に述べたように、ドイツの制度は日本といちじるしく異なっている。筆者はドイツの制度に大きな魅力を感じているが、同時に身の引き締る思いもする。日本は戦前ドイツから医学を学んできたので、今更ドイツから学ぶものはない、あるいはドイツを真似ていたから遅れをとったと考える人は少なくないかもしれない。しかし、以上の報告を読まれた方はどのように感じられるだろうか。
このような差異を生じた原因を探ると二つの要素が浮かび上がる。一つは、戦後のドイツの努力が目覚しいことである。他の要素としては、戦前のドイツから重要なことを学び切れなかったという日本の体質が考えられる。ドイツの医学教育と医師国家試験の基本理念である厳しさを取り入れなかったため、日本の医学教育が甘くなったという事実がある。また、ドイツ医師会は1924年に、医学の進歩に伴って生じてきた医療現場の混乱と将来の医療供給の質を考えて、官僚が手を出す前に、自分たちが理想とする厳格な専門医制度を発足させたが、日本はそれに無関心であった。倫理面では、すでに19世紀後半にドイツの医師は、各地で自発的に医師職業裁判所を設立する動きを始めたが、私たちの先輩はそのような自律規範的なものに関心を向ける余裕がなかったようである。ドイツの現在を理解するには、このような歴史を背負っていることを認識しなければならない。
日本が裁判外紛争処理を含めて諸改革を進めるためには、まだ幾多の努力が必要であるが、例えばどの医師もしっかりとしたカルテを書く能力と習慣を身につけるという基本的な事項ひとつを取り上げてみても、卒前・卒後教育の更なる見直しが必要であることに帰着するのではないだろうか。
□
追記(2007.9.3.):
1.フランスの公的医療事故補償制度
フランスでは2003年に公的医療事故補償制度が発足した。これを担当するONIAM(全国医療事故補償局)の設立に関与されたマルタン局長が2007年6月16日に東京で講演された。
ドイツの制度を調べている筆者が感じたところでは、システムの外見、たとえば担当部局では独仏の間に違いはあるが、鑑定によって医療過誤の有無を判定するという基本的なところでは共通点が多いと思われた。
講演後フロアから質問があったが、この制度は患者を救済することが主眼であるので、死因究明のための解剖はほとんど必要ないという答があった。ドイツを調べている筆者にとって、これは理解できることであった。
2.米国の裁判外紛争処理Arbitration
裁判外紛争処理は1970年代に、増大する裁判の負担を軽減するために米国で考え出された制度で、各方面で成果を挙げているという。医療面においても、米国で半数の州で始められたが、数州を除いて廃止、あるいは成果を挙げていない結果となり失敗している。一方、ドイツでは、米国を学んで1975年から1978年にかけて、各地の州医師会は鑑定委員会/調停所を設置して裁判外紛争処理(調停)を始めた。ドイツではこの制度は成功し、患者や医師の信頼を獲得する成果を挙げている。
米国の研究者が1995年にドイツの裁判外紛争処理を詳しく調査して1996年に結果を発表している。それによると、米国ではArbitration(調停)、つまりADR(裁判外紛争処理)は、a few statesではpositiveであったが、多くの州ではそうでなかった。5つの州では違憲とされるなど、多くの州ではnegativeな経過と結果を辿った。ドイツの制度は米国のアイディアで作られたが、positive
resultsを得て、多数のケースが解決しているが、これはcuriousなことだ、と述べている。そして、両国の違いを細かく比較しているが、「米国は文化と法制度が違うので真似できないが、ドイツのモデルは刺激となり、興味深い」と述べている。このことは日本にも当てはまると思われる。
筆者は8年ほど前に、米国メイン州で内科専門医として開業していた堀江司医師と話をしたときに、メイン州で実施されているADRの状況を聞くことができた。その内容は上に述べたドイツの制度とそっくりであった。
米国の医療過誤に関する法制度を全部の州に分けて紹介しているサイトがあるが、その中にArbitrationという項目がある。法律用語と州の条文は筆者にとって難解で読み取れるものではないが、メイン州やニューメキシコ州、マサチューセッツ州などではArbitrationが全面的、あるいは部分的に採用されているようである。一方、医療過誤裁判が多く、損害賠償保険の保険料が高いと言われているペンシルバニア州では、裁判外での紛争処理は、州の憲法で定められた裁判権を侵害するもので違憲であるとされていた。しかし、この記述は2003年に変更され、5万ドル以下の訴えはArbitrationで処理することができるようになった。